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紙と皿のあいだ

本の感想とドールや猫の写真とか

黒髪 Jullis

カットがあまりにも適当で、癖も整え直してないのでアレなんだけど、取りあえず「ヅラを変えるとこんな感じにもなるよ」レベルの写真も載せときますね。

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この子はもっとアゴを引いた方がかわいいらしいと気づく。
眉毛はウィッグの色に合わせて色鉛筆とかでオーバーメイクした方がいいんだろうね。



ところで、この人形を呼ぶにあたって "Jullis" の名前を呼ぶのは違う気がする。
ボディが別のメーカーであるしメイクも自前となると、商品としての "Jullis" の形をしていないんじゃないか、別個のものなのでは?と個人的には思うのだ。
それが "Jullis" を名乗るのは詐称ではないにしても、若干のおこがましさを感じる。
しかしその一方で "Jullis Head" ではある。公式サイトの商品名称もそうなっているし、その点ではこれは "Jullis" に違いない。


タカラのリカちゃん人形には、リカちゃんのお友だちという名目でいろんなシリーズが出されているけれど、それらの人形のボディはリカちゃんと同じ素体を使っている。ヘッド素体も同一で、顔のペイントと植毛だけが違うというタイプも多い。
となると、リカちゃんとその他の友だちの個性を分けるのは、頭だけだ。
これは 1/3 サイズでも同様で、 "Jullis" のフルセットは 同シリーズの他ヘッドと同じボディを共用している。


まあ、新しいヘッドを作る度にボディをまるごと新造していたらコストがかかって仕方がないよね、というだけの話なんだが、これが製造販売側だけではなく消費者側にも当たり前のこととして受け入れられているのが、当たり前なんだけれど面白いなと思った。
人形趣味のブログなどを徘徊していると、所持しているボディよりもヘッドの数が多いなんて人が結構いる。同じメーカーのヘッドは交換が容易だから、気が向いた時にとりかえて遊ぶのだ。
大きい人形はいるだけで場所を圧迫するが、頭だけならばそれほど場所を取らないという、省スペース化の利点もある。


つまり、商品としてもユーザー認識としても、人形の魂は体ではなく顔に宿っているのだと言える。
ボディに拘りがある人は多いだろうが、例えばそのヘッドだけが壊れてしまい全く違う造形の頭に変更したとして、その人形の個性が受け継がれているかと認識できる人はあまりいないのではないか。
人間が整形したり、顔面に損傷を負うなどして変形した場合、私たちはその人を別人だとは認識しないが、それは顔以外の要素にも人物を判断する要素があるからだろう。
体、髪、目、声、手、それ意外のありとあらゆる個性的な癖。それらを複合的な判断要素として捉えている。
人形の例の場合も、ヘッドを変更してもウィッグやアイ、衣装などを付け替えてみれば「転生後の別人」くらいには見えるかもしれない。その場合、魂はボディに宿っていると言えるのか。


人間の認識能力って面白いなと思う。
素ヘッドの不気味さに紅色を差すだけで脳みそは「血色のいい」と誤解するし、アクリルの瞳を入れ込むだけで「澄んでいる」と誤解する。
結果、「活き活きとしている」ように見える人形が出来上がる。
そんな人間の錯覚を利用して、脳内にもう一つの世界観を作り上げる作業というのがあらゆる意味での「文化」なのか。
多人数の共通認識として通じるレベルの錯覚は、もはやひとつの幻想ですよね、みたいなことを考えていたんだが肝心の名前が決まらない。
別に名前なんか決めなくてもいいんだけどブログ内で固有名がないとやっぱり不便。
「ナナシ」でいいのか。「坊主」とか。頭文字Jとかでもいいけど、俺の年代だとミニ四駆アニメの褐色ショタを連想してしまう。