紙と皿のあいだ

本の感想とドールや猫の写真とか

殊能せんせーについて

ミステリ界の鬼才、SF界のソムリエ、web界のせんせーである殊能将之氏の訃報を耳にしてから、どうにも力が抜け落ちて鬱々しい思考が頭から去らなかったのだが、数日が経ち、さすがに気分が持ち上がってきた。


殊能将之のことを「ハサミ男」だけ読んで語るというのは、足の爪だけをもって象を語るのだということに等しい。ほとんどの作家に対し、読者は作品を通じてしか触れあえないのが普通のことなのだけれど、殊能せんせーはその限りではなかった。
執筆作品が傑作揃いだというのももちろんなのだが、web 上においては公式サイトのファンも同じくらい多かったと思う。
ブログブーム以前の簡素な html で構成されたサイトは、彼の作品と同様にミニマムでセンスがよく、テキストからは博識さ、シニカルでありながら温和な人柄がにじみ出てくるようだった。
web 日記としてこまめに更新されていた「memo」の方が印象に残っている人も多いかもしれない。掲載されていたレシピに触発されて自炊を始めたという post を TL に散見した。
ミステリ板の殊能スレは一時期から完全に「memo」と同期しており、新刊も出ないのに勢いは板上位という状況を長らく維持し続けていた。
「memo」で柚子胡椒が出て来ればスーパーで買ってみたり、我流筑前煮のレシピを試してみたり、テレビネタに突っ込んでみたり、貼り付けられた動画の品評をしたり。
みんなせんせーのファンだったのだ。せんせーは住人の心を一身に集めるアイドルだった。

「memo」の更新が途絶えると彼の体調を心配し、何事もなかったかのように再開されることを祈った。
後年 Twitter に場所を移したそれは、観察者にとっては途絶えることのない web の営みの一部みたいなものだった。
殊能将之という作家の才能を愛しつつも、せんせーが息災であれば本が出なくてもそれでよし、そんな風に語られていた。


せんせーがこの世にいないのだという事実がたまらなく寂しい。
こういう寂しさがこの世には満ちているのだ、ふだんは見えないだけで、たくさんの寂しさが常に隣にあるのだ。
そう気づかされて、とても悲しくなる。
MJ のようなスターが水平線の向こう側に隠れてしまったのとも、また違う。
姿は見えなかったけれど、洗濯機の回転や掃除機の吸引、まな板の鳴る音で存在を感知していた隣人が去ってしまったときに残されるのは、その人の存在ではなく、自分の孤独感そのものだというような、そういう無常感だ。


・togetter まとめ
殊能レシピ - Togetter

・phaさんのブログ
http://recipe.g.hatena.ne.jp/pha/?word=%2A%5Bmercysnow%5D
殊能レシピを転載してカテゴリ化している。

・web archive
mercysnow official homepage
memoへのリンクは飛ぶと切れてるけど、直打ちで参照できる。


直前まで、自殺した国書の編集者・二階堂奥歯の web 日記の再版を読んでいたのだけれど、さすがに気重になって中断し、「黒い仏」は最近読み直したところだったので、それ以外の著書を再読していた。
どれも近年の作品ではない。

鏡の中は日曜日』『樒』で鮎井は彼が失った水城を想うがために語りつづけ、彼の心中の水城は和歌を詠む理由を「芸術、遊戯、鎮魂」と言う。
水城はさらなる理由として「恋愛」をあげているけれど、彼が語るのはやはり「鎮魂」の一種のように見える。
あれは、やはり墓の物語だ。


「最後に死ぬんでしょう、ねえ? あなたは火のなかで焼け死んで、ランサム船長はタラーを残して行ってしまうんだ」
デス博士は微笑する。「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ。ゴロスも、獣人も」
「ほんと?」
「ほんとうだとも」彼は立ち上がり、きみの髪をもみくちゃにする。「きみだってそうなんだ、タッキー。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」


ジーン・ウルフ『デス博士の島』より


せんせーとしてスレでキャラ化されていた殊能せんせーと、孤独死した彼自身との距離はどれくらいあったのだろう。
わたしたちにとって、せんせーとは彼そのものなのだが。


だからこそ憶測だけで語ることもできるけれど、それは Evernote と便所のらくがきに閉じ込めて、殊能将之の小説はやっぱり面白いから皆さん読みなさいと布教に努めるに留めておく。
駄作とか、一つもないですから!(ただしキラキラコウモリは除く)


ハサミ男 (講談社文庫)

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美濃牛 (講談社文庫)

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黒い仏 (講談社文庫)

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鏡の中は日曜日 (講談社文庫)

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キマイラの新しい城 (講談社文庫)

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子どもの王様 (講談社ノベルス)

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9の扉 リレー短編集

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