紙と皿のあいだ

本の感想とドールや猫の写真とか

シェリルとギー

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秋めいてきたので長袖を着せました。

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エスタン調のシャツかわいい。本当はスカートと合わせたいけど、ドールのスカートって流行に関係なく極端なミニばっかりしかないのなんで。

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男前なドヤ顔の風貌ゆえに、ショートヘアーも当然似合うシェリルさん。
シェリルだけは自然と「さん付け」してしまうのは、なぜか。
人格を原作アニメから借りているからか。
シェリルさんは土下座で額に擦り傷を作ってでもディナーに付き合っていただければ幸い系女子だからな……。

ソフビの中に魂が隠ってるとは欠片も思わないが、ヘッドの造形の時点で「勝ち気」「優しげ」「内証的」などの人格は付与されている。「キャラクタ」のコンセプチュアルには人格の投影が不可欠だよなという話です。

そういや、鉄娘みちか炎上の件で「オタク的なキャラクタの記号はハイコンテクストすぎて未経験者には読み解けない」という論を読んで、なるほどにゃーと思ったんですが、人形のキャラクタ性も人間の戯画化という面で同じルールに乗っ取っており、特に融通のきくファッション部分にはオーナーの意識が反映されるんですよね。
キャラクタ性の保持を「この服はこのドールに合う/合わない」と言い換えている人もいる。
ファッション自体が記号なのだし、モデルの性質とのマッチングによって文脈(人格/キャラクタ)が生まれていく。


みちかの件について補記しておくと、ゆるキャラの時点で彼女は意図的に記号をオーソドックスな配置からズラしていて、類例的にはノッポンやグーペおじさんに近い。「デフォルメされた解像度の荒いビジュアル」と「高解像度な生々しい人格」というアンバランスな造形を魅力としており、後者をそのままにビジュアルを高画質化したんで、逆にオーソドックスな萌えの部品が可視化されてしまったという例に思える。

みちかにはTwitterでも言を割いていますが、手塚の時代から長らく続く、表現規制と文化多様性についての問題の末端にあるので、どうにも気になるというか口を挟みたくなるという感じです。
萌え絵みちかがアリかナシかでいったらアリに決まってるんですが、その理屈を言語化できないことにはオタクの未来は暗い。