紙と皿のあいだ

本の感想とドールや猫の写真とか

シンエヴァの一番の引っかかりどころ、「マリ」って存在の解釈について

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上映時間ギリギリに歩きつつ撮ったからブレブレ

※ネタバレです

『シン・エヴァンゲリオン』観た?もう観たね?

私は有給を使ったので初日に二回観ることができました。
シンジと同い年の頃からリアルタイムで連れ添ってきたシリーズなので、執着もそれなりにあり、しかしそれ以上に完結が待ち遠しかった。
二回見終わった今でも、なんだか夢の中にいるようなフンワリした気分がある。「見る前」と「見た後」の自分の違いは頭の中に残る作品の記憶でしかなくて、それはもうパンフレットの表紙のようにフンワリしている。映画を楽しむってこういうことだったな、と『Q』を見た当時のことを思い出している。


作品とキャラクタに対する感想も別にまとめるつもりだけど、表題についてだけ先に書き出しておくというか、ほぼふせったーの転載です。
シンジの手を引くのが最終的にマリだったのが、Qにアスカに引かれているのと役が入れ替わっただけであるって点にどうしても不満がある。腑に落ちない。いくつかの観点から嫌な感じで、このままだと寝入りが悪くなりそう。
一回目の鑑賞直後の感想は正直そんなもので、二回目でその疑問の答えの尻尾を見つけて「エウレカ!」となったので、これだけ別記事です。勢いのままに。



「主人公が手を引かれ、導かれる」というキャラ間の構図の変化のなさにまず違和感があった。
「新劇から加わったマリが新しい世界を与える」という図式は理解できるし真っ当だと思うが、それでもシンジが一人で立ち上がってから手を繋ぎなおす形がよかったんじゃないのか。
だってQのアスカに手を引かれるラストから変わっていない。反復の美というならキャラが違うのはどうなのか。
アスカの孤独をケンスケが補完するように、人はやっぱり一人じゃ生きられないよね、ゲンドウみたいに内にこもってちゃダメだよね、という流れなのはわかるんだけど、正直、ハーレムのヒロインだけすげ替えたようにも受け取れて、マジか??????となる。(一回目では)


今作はそこまで明確な視聴者への拒絶の描写がないだけに、自分の価値観や妄想が柔らかく否定されるのが逆にちょっとつらい。(とこの時は感じていた)
他の作品にももちろんそういうことはあって、それこそ「公式と解釈違い」って言葉が定文化するくらいにはよくあることだけど、エヴァはそれをわかって戯れ付いてくるような感触を勝手に感じ取っていたから、これが最後になるのかーというのが寂しい。
「戯れ付いてくる感触」は今作にもあって、盛んに目配せをしてくる。視聴者の反応を読み取って、作品に反映させている部分はむしろ圧倒的に顕著とすら感じる。今までファン考えてきた数多の可能性、考察、キャラクタへの願望がアニメーションとして現実に具現化されている。他の作品だったら奇蹟とすら呟いたかも。
そういう意味でも「サービス」過剰な作品なだけど、「シンジとアスカいうキャラクタだけはEoEからの解釈を絶対に曲げない」という強い意志を感じる。そこには頭を垂れるしかない。*1


だからこそ、便利キャラになってるマリはなんなんだっていう……。ミサトもゲンドウもレイもカヲルもやることやってみんな退場したのに……。(と思っていた)
ひとりだけ「やるべきこと」がなかったから劇から退場せずに、シンジの側に残ったのがマリだったって理屈はわかるが、これまでにふたりの間に強い関係を感じさせる描写はなかったし、この作品内でも強調はされていない。マリもただ「やるべきこと」をやったが、それは駒としての動きに見える。それ以上がない。


そもそもマリは結局なにをしたかったの?目的はなんだったの?どういう人間なの?(「セックスが上手そう」という印象以上のものがない、マリの設定を見つめ直さねばならないと、ここに来て気づく*2
「どこにいても迎えに行くからね、シンジくん」の言葉の通り、外の世界からシンジを連れ出すことだけが目的だったの?ということでいいのか?

シンジの側にラストにいるのは、なんなら知らない新規キャラでよかった。
シンジは少年でなくなることで庵野と視聴者の皮をも同時に捨てたが、一方でシンジ自身であることも棄てなくてはならなかったようで、アダルトチルドレンは止められてなくてつらい。それなのに母親と同じ世代のマリが側にいるのが恐怖。*3

シンジから青春を奪ったのは我々かもしれないし、そもそもあの世界は子どもに子ども時代を与えられない厳しい世界だったってのはW加持を見ていてわかったのでよい。でも作り替えた世界はそうじゃなくてもいいはずで、その余地がなかったのが……。
新劇場版は同窓会でしかないってことはわかっていたし、シンジくんを14年間眠らせちゃったのは私たちのせいってことはわかっちゃいるけど、なんでこんな気持ちにならなきゃいけないの?落とし前なの??って逆恨みの気持ちになってきてつらい。


でもシンジについて視聴者がどれだけあれこれ勝手に心配しても余計なお世話で、本人がさっぱりしてんだからいいんだよ。っていう点で視聴者は完全に切り離されたし、余計な老婆心でしかないので、庵野全肯定モードに入るしかない。





(一晩が経過)






シンエヴァのマリについての自分の中での答えが出た。マリ=Mary Sue、つまり「マイキャラ(であり夢女/男子の自分)」だ。だからゲンドウとユイと同い年の大人だし、作品内での背景設定の露出が一切ない。

マリはユイと同じく上位次元からやってきた使徒イスカリオテのマティア)であり、物語の主人公であるシンジを「エヴァンゲリオン」の向こう側に連れ出すこと、ヒロインであるアスカを救うことを目標としている。

ゲンドウはユイ(虚構存在)を追い求め、その原典以外を認めない原理主義なオタクだったし、最終的にはその姿に似せた「派生作品(レイ)」ではなく、遺伝子を受け継いだ(新しい作品である)シンジの中に彼女が生きていることを見つけて、二人は結ばれた。やべえやつだ……。


マリ(視聴者でありファン自身の現し身)はシンジを物語の外に連れ出し、シンジは神木慎之介の声を持つ若者に成長する。
これが何を意味するのか。
セカイ系の発端であるエヴァから生まれ出た新たなるアニメーションの流れ、新海誠*4作品の誕生である。
神木くんはこれで、宮崎・庵野・新海(&細田)の系譜に線を引いたことになる。断言するが、緒方恵美はやろうと思えば28才の声も出せる。なのにやらせないのは明確に主人公の前後を示そうという意図があり、永遠の少年像としてのシンジに別れを告げたわけだが、選出に対してはそういう意図があってもおかしくはないと思う。
「実写俳優だから」という声も見かけたが、それなら絵の方も完全実写でやればいい。なんでやらなかったのか。
それはやっぱり「アニメーション」として終わろうという意志があるからじゃないのか。私は新時代にバトンタッチしたよという暗喩として受け取った。(主にシンジが成長したという事実から目を逸らしたくて……)アニメーションの魂は姿を変えて生き続けるってことかも。


ガフの扉の向こうに飛び込んだシンジが、すべてのシンジの集合体になり我らがスーパーシンジと化したように(EoEシーンのアスカが完全に俺たちの愛し全力で恋したエロ同人の美しさを湛えていたので、やっぱりシンジも感覚に違わずそういうことなんだと思う)、その向こうからやってきたマリもそういう存在なのだと思う。世界を革命する力、どんな時も不敵な笑みを浮かべる、女版コブラみたいなスーパーオリジナルキャラ。キャラクタにセクハラもする(が許される…)。
マリはエヴァとシンジと庵野を愛する我々そのものだったんじゃないか。
だからあの虚数宇宙での様々なエヴァの可能世界をマリだけが自在に泳げたし、本物の匂いを頼りにシンジに手を差し伸べることができる、と制作スタッフが信じてくれてたらいいのに。という気持ちになった。
なにしろ、あの世界は自分の記憶が「好きなように」見せてくれるものらしいので。

そこから出ちゃったらシンジが成長してしまうのもわかっていたし、それでも彼の笑顔でこの物語が終わることだけを祈っていたから、まああのラストもしょうがないっすね。

つまり、ラストシーンの彼はシンジであってシンジではない。変化した彼は我々が知っているシンジとは違う人間になっている。主人公の魂が物語から切り離されて、解き放たれたってのはそういうことだ。
主人公は庵野監督でも、感情移入している「僕/俺/私」自身でもなく、完全に切り離されて新しい主人公になる。
そして、そのときに隣にいるのは我々「ファンである視聴者*5」なんだ。

…………結婚じゃん!!!!!!!!!!!!!*6
ということで、今度こそ解放されました。ありがとうございます。



おそらくだけど、エヴァのキャラクタの設定は進行途中に変更されることもままあって、マリはQかシンで急にそういうことになったんじゃないかな〜とか思っている。知らんけど。貞本マンガ版にマリの来歴を描いたボーナストラック的な短編があり、その時点でもユイの大学時代の同窓ということにはなっていたんだと思う。
しかしメタ的な意味での「主人公を外部へ誘う」と、作中設定の「母親と父親と同じエヴァを作った側の人間」というは噛み合わせが悪い。だから「イスカリオテのマティア」を追加して革命児要素を強くしていったのでは。でも最初から強キャラ感に溢れてたし、最初からそうだったのかもね。わっかんねーよ!
この解釈自体がメアリー・スー染みているけれど、今はこれで納得できたからこれでいいかという感じです。


本当にラストのカットは、あれは「現実に帰れ」ではなく、もうすでに現実とアニメの世界は融和しているってことなんだと思った。
昔みたいにオタクだからって強烈な疎外感を覚えることも減り、アニメーションだからと作品自体を評価されないなんてことも少なく、人間は虚構のキャラクターに憧れを抱いたり元気を貰うことをすごくナチュラルにやっている。
「一緒にやっていきましょう」ってことなんだと思う。




www.shakaika.jp

神木くん→新海アニメって連想しちゃったの、シンジが大成建設のCMに出てそうな様相をしてたのが多いに関係ある。
新劇のシンジは宇宙光学とか音楽系に行きそうな感じがあったが、切り離されたはずの監督の意志に負けてんだから呪縛から解放されてなくね?
(ヒカリによって呪縛はおまじないに反転してるっぽいけど)



www.magabon.jp

――同じ貞本義行がキャラクターデザインということもあり、雑誌などでも「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」と一緒に掲載されることの多い本作。「『エヴァ』を実写化するならシンジ役は?」といった質問に神木さんが1位に入っています。
「『エヴァ』は、友達と見たことがありますが、ありがたいです! もう是非お願いしますって感じです(笑)」

この頃の神木くんが可愛すぎて言葉にならない。

*1:シンジとアスカ以外の人間についても妥協やウケ狙いを取っているというのではないです。どのキャラクターも徹底して生きているけれど、描写のやり方のほうを視聴者に寄り添うかたちにしている。アスカとシンジはそこが容赦なく切り詰められているという印象。

*2:考察とか絶対にしたくないタイプ。

*3:どうしても操られてるっぽさが出る

*4:細田守セカイ系ではないけれども神木くんの主演作があるので、こちらも該当すると思う。

*5:観測者でもあるんだろう。

*6:婚姻主義ではなく「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」ENDって意味で。